立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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Q 立花宗茂の養父 道雪は「立花道雪」「戸次道雪」のどちらを名乗ったのでしょうか?
A  立花宗茂の養父である戸次鑑連は、天正二年(一五七四)頃に入道して道雪と名乗ります。さて現在、この道雪を「戸次道雪」とするものと「立花道雪」とするものが混在しています。もともと「人物紹介」でも記述したように、本来道雪は戸次氏です。つまり立花城主の立花鑑載敗死の後、立花城の城督に任じられた道雪が「立花」を名乗ったかどうかということが諸書で異なっているのでしょう。
 実は立花家では代々、「道雪は戸次、宗茂から立花」ということが伝えられてきました。実際に道雪の出した文書の研究によると、現在150通以上が確認されるそうですが、文書を出す時の名乗りは「戸丹入」(これは「戸次丹後入道」の略)などと記されており、一方、養子統虎(宗茂)は天正十年以降「立花」を名乗っており、明確に区別されているようです。さらに、江戸幕府が編さんした『寛政重修諸家譜』には、「立花家を相続すといえとも、ゆへありて鑑連一代は戸次を称す」とあります。どうやら道雪は大友宗麟に対して、たびたひ立花姓の使用を求めたようですが、宗麟が鑑載の不忠を嫌って立花姓を名乗ることを許さなかったようです。最後にはその使用を許可したようですが、養子統虎が立花姓を名乗ることとなり、道雪自身は終生戸次姓を使用したのが真相のようです。
 ただし、江戸時代に作成された系譜・系図類には、道雪が立花姓を名乗ったとするものもあり、すでに当時から混乱していたようです。


Q 柳川藩は、何万石だったのでしょうか?
A 最初に立花宗茂が柳川に入ったのは天正15(1587)年のことで、その時の領地高は13万2200石でした。しかし、ご存知のように、宗茂は関ヶ原の合戦で西軍に属したため改易され、かわって田中吉政が柳川藩主となり、筑後一国32万5000石を与えられます。その後再び宗茂が柳川藩主に返り咲きますが、領地高は少し減少して10万9647石余でした。よって江戸時代の柳川藩立花家の領地高はおおよそ11万石となります。時に「柳川12万石」と言われることがありますが、これはおそらく文化13(1816)年に旧三池藩領の1万4840石余が柳川藩預りとなったのを合わせて言っているのだと思われます。



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