立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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立花宗茂 年表
年次 西暦 年齢 事 績 関連事項
永禄 10 1567 1 豊後国国東郡寛において誕生、幼名千熊丸  
11 1568 2 夏、筑前立花城の立花鑑載、大友宗麟に謀反、戸次道雪・吉弘鑑理(宗茂祖父)・臼杵鑑速らが立花城を攻略  
12 1569 3 実父紹運高橋家を継ぎ、宗茂も筑前国御笠郡岩屋城に移る  
元亀 2 1571 5 7月、戸次道雪、筑前立花城に入る  
天正 3 1575 9 5月28日、戸次道雪家督を一女誾千代(光照院)に譲る  
6 1578 12   11月、耳川の戦い、大友軍大敗
9 1581 15 9月、戸次道雪の養嗣子となる
11月、道雪・紹運、秋月勢と筑属国穂波郡潤野原に戦う
このころ道雪は筑後各地を転戦、宗茂は筑前立花城の留守を護る
 
10 1582 16 11月、立花城にて「御旗・御名字」祝い、名字を「戸次」から「立花」に改める 6月2日、本能寺の変
12 1584 18 7月、御笠郡に出陣
9月、道雪・紹運、筑後国上妻郡猫尾城に黒木氏を滅ぼす
3月24日、肥前の龍造寺隆信、島原に敗死
13 1585 19 9月11日、筑後国北野の陣中で道雪死去
9月12日、実弟高橋直次の護る宝満城落城
7月11日、秀吉関白任官
8月6日、四国平定
秀吉、九州停戦を命ず
14 1586 20 7月27日、岩屋城落城、紹連戦死
8月6日、宝満城落城、直次・実母宗雲尼は島津方に捕らえられる。その後、島津勢宗茂の立花城を包囲
8月24・25日、島津勢撤兵、島津方の糟屋郡高鳥居城を攻め落とす
10月18日、宗茂、高橋元種の豊前田川郡香春岳城を囲む黒田孝高・吉川広家・小早川隆景を訪ね、立花城救援の礼を述べる。翌日立花城へ帰還
3月、大友宗麟ひそかに大坂城を訪ね、秀吉に救援を乞う
6月中旬、島津義久大軍を催して九州を北上
10月、毛利勢が豊前攻略を開始
12月12日、豊後戸次川の戦い
15 1587 21 4月5日、筑前秋月の陣で豊臣秀吉に島津攻めの先鋒を命じられる
4月12日、肥後南関を経て高瀬に入る
4月23日、博多町人還住のため諸役免除を命じられる
4月29日、薩摩国川内に到着。川内入りの直前、救出された直次と対面
5月26日、薩摩からの帰途、薦野賢賀に感状を与え、立花の名字を許す
6月25日、筑後3郡を与えられ、山門郡柳川を城地と定める
8月中旬、知行充行状を発給
9月2日、直轄地の代官を補任
9月5日、小早川秀包を大将とする筑後勢肥後国人一揆討滅のため肥後南関に到着
9月下旬から10月上旬頃、一揆勢に包囲される佐々方平山城への兵糧補給に成功。その後、一揆勢の籠もる田中城を包囲
12月5日、田中城落城
12月16日、隈部親永降伏。親永と次子内古閑政利(鎮房)は宗茂のもとに預けられる
3月1日、島津討伐のため、秀吉大坂城から出陣
4月1日、島津方秋月種実の豊前岩石城落城
4月17日、日向根白坂の戦いで島津方大敗
5月8日、島津義久降伏
6月19日、秀吉バテレン追放令を発す
16 1588 22 5月27日、柳川城下黒門で隈部親永らを討ち取る。その後ほどなく上洛
7月5日、従五位下、侍従に任ぜられる
4月14日、後陽成天皇、聚楽第行幸
7月8日、刀狩り令・海賊停止令
17 1589 23 1月13日、直次とともに神屋宗湛の茶事に招かれる  
18 1590 24 5月、尾村連続から弓術免許
6月14日、小田原の陣中見舞いのため柳川を発す
8月、柳川へ戻る
9月28日、天正18年検地の結果をうけて、家臣に知行坪付を与える
10月までの間に妻子を伴い上坂、しばらく在大坂
3月1日、秀吉小田原攻めに出陣
7月5日、小田原開城
19 1591 25 9月12日、御前帳の徴収に関連して領国の地高・石高を報告
10月、この前後在洛か
その後、肥前名護屋城普請に従うため下国、名護屋へ向かう
12月19日、肥後の豊臣蔵入米の名護屋廻漕を命じられる
12月28日、秀吉、関白職を豊臣秀次に謙る
文禄 1592 26 3月、小早川隆景を主将とする第六軍に組織され、軍役2500を課される。その後、釜山へ渡海、渡海に先立ち「統虎」から「宗虎」へ改名
渡海後、宗茂は小早川隆景らと漢城へ北上
5月、漢城を経て臨津江のほとりに陣を構える
5月25日、臨津江畔を去って南下開始
6月下旬ごろ、隆景らと全羅道経略に従う
7月12日、隆景、全羅道の戦列を離れ、漠城方面へ移動
7月16日、宗茂、隆景の移動を秀吉に報ず
9月中旬、宗茂らも漢城方面への移動が命じられる。その後、宗茂は隆景らの軍勢に合流、漢城北方に展開
7月9・10日、錦山の戦い
8月9日、梁丹山の戦い
8月18日、再び錦山の戦い
2 1593 27 2月上旬、漢江の南で城普請に従う
その後も漢江付近(竜山か)に在陣
4月中旬、漢江付近から南方への移動を開始
6月、晋州城の包囲に参加
6月29日、晋州城陥落、ついで朝鮮半島南岸での在番を果たすべく、「かとかい」城およびその「端城」の普請にかかる
このころ「正成」に改名
閏9月、隆景は日本へ帰還、宗茂は小早川家家老らと「かとかい」城の在番を継続
1月27日、碧蹄館の戦い
3 1594 28 この年後半から4年前半ころに「親成」に改名
 
4 1595 29 9月、日本に帰還
秋、秀秋の小早川家襲封を前提に筑前・筑後で検地実施
10月17日、伏見に上り、秀吉に拝謁
11月中旬、大坂を出船
12月上旬、柳川へ戻る
12月14日、領国の年貢総高、再検地の結果を山口玄蕃頭に通知
7月14日豊臣秀次切腹
8月3日、大坂城中壁書を発布
慶長 1596 30 3月8日、三瀦郡北部を割譲される
ほどなく筑後諸大名に領国異動後の知行充行状が発せられる(文禄4年12月朔日付)
4月28日、家臣へ知行充行状を発給
5月17日、小野鎮幸を留守居とし、上洛
10月、丸目蔵人より剣術免許
9月1日、日明講和交渉破綻
2 1597 31 2月21日、陣立書発令
7月14日、宗茂渡海、釜山城に入る
9月、宗茂釜山城を出て、固城あるいは南海島へ移動
12月、固城に駐留
6月12日、備後で小早川隆景没
12月末、蔚山龍城戦が始まる
3 1598 32 8月28日、五大老による撤退命令が出される
10月30日、小西行長・島津義弘らと南海瀬戸で撤退に向け談合
12月中旬、博多に帰還
12月26日、大坂に到着。その後、島津義弘・小西行長らと伏見へ上る
8月18日、豊臣秀吉没
11月16・17日、露梁津の戦い
4 1599 33 1月7日、島津義弘・忠恒らと家康の茶席へ招かれる
閏3月8日、島津義弘・忠恒、寺沢正成らと起請文をかわす
5月下旬から6月上旬、家臣に知行を充行う
7月24日、庄内の乱に関連して忠恒に出兵を打診
9月、上洛
ほどなく下国
3月9日、島津忠恒、重臣伊集院幸侃を討つ
閏3月3日、前田利家没
5 1600 34 7月、西軍に加担
8月22日、美濃垂井付近に出陣
近江大津城主京極高次が東軍に転じたため大津城包囲
9月15日、京極高次降伏
関ケ原の敗報に接し大坂龍城を説くが、いれられず柳川へ戻る
9月26日、帰路安芸国日向泊りで島津義弘と面談
10月2日までに柳川へ帰城
10月10日、大津攻城戦の感状を発す
10月20日、三瀦郡江上・八院付近で鍋島勢と交戦
黒田如水・加藤清正との間に和睦成立、柳川城開城
11月初頭、如水のもと島津攻めの先鋒を命じられ肥後路を南下
このころ一時的に「政高」を名乗り、ほどなく「尚政」と改める
11月、肥薩国境に駐留、22日、撤兵
12月2日、肥後高瀬に入り、江上合戦の感状を発す
家康へ釈明のため東上
12月12日、着坂、黒田長政と面談
6月18日、徳川家康、会津討伐に出陣
9月15日、関ケ原の戦い
6 1601 35 田中吉政への筑後充行をうけ肥後へ戻る
肥後高瀬に寓居
7月、上方に上り家康に拝謁、上方滞在
10月24日、中江新八から日置流弓術免許
4月、田中吉政、筑後初入部
8月16日、上杉景勝、家康に謝罪
7 1602 36 3月26日、吉田茂武から日置流弓術免許
10月17日、正室誾千代(光照院)肥後玉名郡腹赤村で死去
12月27日、島津忠恒(家久)、伏見で家康に拝謁
8 1603 37   2月12日、家康、征夷大将軍に任ぜられる
9 1604 38   3月20日、黒田如水(孝高)没
7月17日、徳川家光誕生
10 1605 39 このころ「俊正」と実名を改める 4月16日、秀忠二代将軍となる
7月19日、旧主大友中庵
(義統・吉統)没
11 1606 40 9月、江戸へ出て将軍秀忠に拝謁
その後、奥州南郷に領知を与えられる
11月11日、南郷で家臣団に知行充行状を発給
 
12 1607 41 5月25日、知行坪付を発給  
14 1609 43 6月、小野鎮幸、肥後で死去 2月18日、筑後国主田中吉政、伏見で客死。四男忠政、跡を継ぐ
15 1610 44 2月、秀忠の駿府行に従う
7月25日、加増をうけ領知高が3万石となる
加増を契機として実名を「宗茂」と改める
9月下旬、南郷へ下る
8月4日、権中納言葉室頼宣没
16 1611 45 4月、実母宗雲院没 6月24日、加藤清正没
17 1612 46 6月、由布雪下、奥州で没
7月7日、直次の四男出生、宗茂は嗣子として養う(のちの忠茂)
 
18 1613 47 1月28日、直次、家康・秀忠に拝謁
11月、日向国県を改易された高橋元種を預けられる
 
19 1614 48 10月9日、直次、常陸国内で5000石の知行を与えられる
直次とともに大坂冬の陣に従う
 
元和 1615 49 4月10日、大坂夏の陣に備え江戸を発向
5月7日、天王寺口の戦い
5月8日、大坂城落城
2 1616 50 2月、奥州南郷に下る
5月28日、道雪後室問註所氏(宝樹院)肥後で死去
12月、秀忠の御咄衆となる
4月17日、徳川家康没
3 1617 51 3月28日、領内八槻の都々古別神社に書状を発す
7月、実弟直次没
 
4 1618 52 11月8日、肥後加藤家の内紛に伴い旧臣立花鎮久父子を預けられる  
5 1619 53 11月27日、筑後柳川への再封決定
閏12月、柳川下向の日取りが決定
5月、秀忠上洛
6 1620 54   8月7日、田中忠政没、田中家無嗣断絶
閏12月8日、丹波福知山の有馬豊氏に北筑後が与えられる
7 1621 55 1月10日、宗茂の甥種次(直次長子)の三池再封決定
2月1日、柳川下向の途次三河吉田に到着
2月5日、近江膳所に到着、本多康俊を見舞う
2月26日、筑後に入る
2月28日、柳川城受け取り
7月12日、家臣に対して知行高の覚を発す
9月29日、「柳川再城之御連歌」催行
11月15日、内検高が決定
 
8 1622 56 4月1日、再内検の高が算定される
7月6日、家臣団に対し一斉に知行充行状を発給
10月21日、江戸参府、秀忠へ御礼言上
その後、元清願寺前に江戸屋敷の普請を開始
12月27日、忠茂元服、左近将監を名乗り、秀忠の偏諱をうける。宗茂は「飛騨守」と改める
 
9 1623 57 1月13日、秀忠の茶席に陪席
5月16日、秀忠の上洛に従うため江戸を発ち、三島到着
5月26日、京着。その後、秀忠の出京に先立ち暇を与えられる
閏8月12日、下国の途次、大坂で手伝普請に関する法度を定める
閏8月20日、小倉着
閏8月27日、柳川へ帰城、大坂の小野茂高に指示を発す
国元で越年
7月27日、家光三代将軍となる
8月4日、黒田長政没
寛永 1624 58 3月15日、「横洲給人」へ充行状を発す
4月4日、江戸で継室矢島氏が没す。法号「瑞松院」
5月3日、柳川を発ち江戸へ上る
5月6日、下関を出船
5月10日、「宇野島」到着、大坂城普請の石場を預かる十時惟益と面談
ほどなく江戸へ到着、江戸で越年
8月17日、立花鎮信没
9月22日、大御所秀忠、江戸城西の丸へ移る
2 1625 59 この年は在府し、秀忠・家光に近侍
11月11日、忠茂、由布惟与に立花の名字を許す
 
3 1626 60 1月28日、柳川へ帰城
3月、三池藩主立花種次没
5月5日、領内再検地の結果がまとまる
5月13日、柳川を発ち東上
5月19日、着坂、その後入京
9月6日、後水尾天皇の二条城行幸
10月、秀忠に従って江戸へ戻る
5月28日、上洛のため秀忠江戸発足
7月12日、家光上洛のため江戸出発
4 1627 61 この年は在府し、秀忠・家光に近侍
11月25日、上杉定勝の万句興行連歌に同座
12月4日、柳川瑞松院に寺領を充行う
 
5 1628 62 1月、大坂城手伝普請に従う小野茂高に指示を与える
4月25日、家光に従い日光に社参
9月17日、小野茂高大坂で客死
 
6 1629 63 江戸下屋敷の普請開始
1月、「大瀬戸の茶入」購求
7月ごろ、上屋敷を出て下屋敷へ移る
9月、秀忠より「丸壷の御茶入」拝領
 
7 1630 64 12月8日、忠茂、永井尚政女と祝言  
9 1632 66   1月24日、徳川秀忠没
6月、肥後加藤家改易
8月、黒田騒動
10 1633 67 5月11日、家中の軍役道具を定める
9月11日、立花鎮久没
9月14日、由布惟次没
 
11 1634 68 3月5日、忠茂を伴い家光に拝謁
7月、家光の上洛に供奉
閏7月16日、二条城にて領知充行状をうける(8月4日付)
ほどなく忠茂下国
閏7月25日、家光の大坂行に従う
8月5日、家光に従い出京し、20日、江戸到着
9月13日、家光の日光社参に従う
9月20日、江戸に戻る
10月11日、江戸城西の丸で家光慰めの宴
10月末、江戸城手伝普請に関わり石垣調達などの指示を発す
12月5日、忠茂室永井氏没
1月、秀忠三回忌法要
12 1635 69 忠茂参府に先立ち上屋敷の新築が開始
春、忠茂参府
7月27日、紹運五十回忌
この年、由布惟貞父子、立花家を辞す
 
13 1636 70 1月、江戸城総構の大修築が開始
4月6日、家光の日光社参に供奉
5月21日、忠茂下国、下国に先立ち立花家の什書が忠茂へ移譲
5月24日、伊達政宗没
14 1637 71 閏3月12日、忠茂江戸参府
11月、領内仕置のため忠茂下国
12月10日、忠茂原城に着陣、20日、立花勢が主力となり原城三の丸攻撃
10月、天草・島原の乱勃発
15 1638 72 1月12日、宗茂らに原城討伐命令
2月6日、宗茂着陣
3月4日、宗茂柳川帰城
4月4日、豊前小倉で上使太田資宗が諸将を労う
5月13日、宗茂江戸に戻り登城
9月5日、家光、宗茂の下屋敷を訪れる。「粟田口則国」の脇差拝額
10月20日、家光の臨酒井忠勝邸に従い隠居を許される。その後、法体となり「立斎」と号す
1月1日、原城総攻撃、攻方大敗
2月27日、原城総攻撃、翌28日、原城陥落
16 1639 73 2月1日、家光の臨酒井忠勝邸に従い頭巾を許される
4月3日、忠茂参府し、襲封の礼を言上
7月18日、家光、宗茂の下屋敷に臨む
8月9日、江戸城に召され、異国船来航時の措置について申し渡される
9月13日、家光の東海寺御成に従い杖を拝領
 
17 1640 74 2月11日、病気見舞いの菓子を下される
5月15日、忠茂在府の延長を願い出る
6月20日、宗茂の老体を理由に、忠茂の在府が許される
6月26日、見舞いの使者をうける
12月18日、家光、鹿野の地から見舞いの使者を宗茂に遣わす
 
18 1641 75 1月、忠茂、従四位下叙任
6月20日、忠茂在府の再延長を願い出る
8月ころより眼病悪化
 
19 1642 76 5月1日、忠茂下国
7月ころより死の床に臥す
11月25日、没、江戸下谷広徳寺に葬られる
 

この年表は、中野等先生著「人物叢書 立花宗茂」を元に作成いたしました。

戸次道雪、高橋紹運、誾千代に関する項目は、今後、更新してまいります。



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