立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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谷田家について
『柳河藩享保八年藩士系図』によれば、谷田家は元来南部を氏とし、代々鎌倉幕府に仕えていたとされる。しかし、北条高時の乱の時一族は戦死し、幼年の男子は牢浪の後下総国へたどり着き、吉良家へ仕えたという。その後、図書という人物の代に子の喜右衛門行貞とともに吉良家を去り、牢浪の後、天正14年筑前へ下向、宗茂へ仕えることになったとされる。行貞は、朝鮮出兵にも従軍したが、慶長5年(1600)大津城攻めの時戦死した。行貞は実子がいなかったため、池辺弾正の四男六郎兵衛貞俊に跡式を継がせた。しかし、行貞には兄が二人居り、牢人であった二人は、大坂陣の折、大坂方に参加した。このため、南部の氏を遠慮し、谷田に改め、紋も鳴子にするよう、宗茂に命ぜられた。貞俊の子行篤の時に、氏を南部に復し、以後しばらく物頭・番頭などを勤める高300石の家として続くが、中途より石高は100石となり、組付侍となっている。




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