立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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Vol.13 忠茂の署名 2008/1

立花忠茂は、宗茂を継いで柳河藩2代藩主となる人物です[Vol.4参照]。さしあたり注意しておきたいのは、彼の生涯をとおしてみれば「忠茂」とは名乗り(実名)の一つであったということです。たとえば『旧柳川藩志』に「幼名千熊丸」「実名忠貞・忠之・忠茂」とあるように、彼はたびたび名を改めていきました。とはいえ、以下には混乱を避けるため、ひとまず忠茂と呼んでいくことにします。忠茂が生きた時代は柳河藩の歴史にとっても、幕府との関係が定まり、藩の機構や制度が整備されていく重要な段階にあたります。しかしながら当時の柳河藩や忠茂に関しては未だ不明なことも多く、今後とも古文書などの分析を進めていく必要があります。ここでは、その際に鍵となる忠茂の署名について、いくつか紹介してみたいと思います。

柳川署名
A〜Dは、いずれも京都で柳河藩の「御用」をつとめる富士谷紹味に宛てた書状で、日付と署名の部分です。ここに挙げた署名は、官途・名乗り・花押[Vol.2参照]で構成されています。名乗りに注目すると、AB「忠茂」とCD「忠貞」の2種類に分けてみることができますが、一体どのような順序で改められたのでしょうか。なお残念ながら、書面など掲げていない部分に手がかりとなるものは見当たりません。

さて肝心の日付ですが、当時の書状の多くがそうであるように年は記されていません。しかし「壬」「後」とも表される閏月によって、年をいくつかの候補に絞ることができます。また忠茂が誕生して死去する間ですから、A「後九月」(閏9月)は寛永19年(1642)、C「壬正月」(閏1月)は慶安1年(1648)と、それぞれ1度のみです。ただB「壬極月」(閏12月)は、元和6年(1620)と万治1年(1658)の2度あり、どちらとも言えません。そこで、日付や名乗り以外に目を向けてみることにします。A〜Dに共通してみられる「左近」とは、忠茂が元和8年(1622)12月27日に任ぜられた官途「左近将監」を略したものですが、万治2年(1659)12月28日には「飛騨守」へと改められます。したがって、Bは元和6年ではなく万治1年の閏12月と確定します。

ここで少しまとめます。閏月ではなく年不詳のDは除くとして年代順に並べてみると、
寛永19年(1642) 閏9月10日 「忠茂」
慶安1年(1648) 閏1月2日 「忠貞」
万治1年(1658) 閏12月3日 「忠茂」

ところで、Dのように年が判明しないものは、どのように位置づけたら良いでしょうか。今回掲げた材料から判断すると、Dは名乗りが同じ「忠貞」であるCの前後、A→CもしくはC→Bの間に入ります。どちらが適切なのか、最後に花押から探ってみることにします。いずれも似た形をしていますが、よくよく見てみると、底辺から左上に伸びている短い線が1本のACと、2本のBDとに分けることができます。すなわちDは、花押の形からするとB、名乗りではCと同じグループですから、C→Bの間に位置づけるのが良いだろう、ということになります。

忠茂のように、かつての名乗りを再び用いるということは、武家の歴史をとおしてみれば、それほど奇異ではありません。けれども忠茂にとって、また彼の時代においては、どのような意味があったのでしょうか。その答えにたどりつくための道は、今回のような試みを忠茂が遺した文書の数だけ続けていくことなのかもしれません。ちなみに、600通を数えたところです。 

柳川古文書館 学芸員嘱託 穴井綾香


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