立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
HOME  サイトマップ
人物紹介・系図
歴史探訪 お出かけ・イベント情報
立花家ゆかりの史跡

コラム立斎合財 美術品・古文書 立花家ゆかりの史跡 年表
Q&A 書籍紹介 リンク ご挨拶・このサイトについて

宮永様跡とぼたもちさん
宮永様跡:福岡県柳川市上宮永町
ぼたもちさん:熊本県玉名郡長洲町
宮永様跡とぼたもちさん

宮永様跡 誾千代の屋敷跡

宮永様跡柳川藩主立花宗茂の正室であった光照院、通称誾千代は、別名「宮永殿」とも称されます。これは、誾千代が宗茂の柳川入城後、城下宮永に居館を設けて住んだことによります。現在はその居館の跡は残っておらず、屋敷があったと推測される場所に、そのことを示す石碑が建てられています。

宮永様の屋敷跡は宗茂と誾千代の「別居」という事実を示していますが、この「別居」が何に起因するものか、現在のところ明らかではありません。
地図

ぼたもちさん 誾千代の墓

ぼたもちさん「ぼたもちさん」は熊本県長洲町にある誾千代の墓です。この名称は、墓石の形状がぼたもちに似ていることからきています。

宗茂が関ヶ原の合戦で西軍に味方し敗れた後、誾千代は他の家臣ともども加藤清正のもとに身をよせます。清正が書いた書状の内容から、清正が誾千代に「兵糧」を送っていたことが分かります。このころ誾千代は肥後領内玉名郡腹赤村に居住していました。しかし、関ヶ原の合戦から2年後の慶長7(1602)年10月17日、同村において死去しました。享年は34あるいは35と伝えられています。腹赤村の墓は「ぼたもちさん」として今も祭られています。

backnext



ページの先頭
 Copyright (C)2005 Muneaki Tachibana All rights reserved.