立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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 戸次家と立花家  戸次道雪  立花宗茂  高橋紹運  誾千代

戸次道雪戸次道雪は永正十年三月十七日(別の史料には永正十三年とも)藤北鎧嶽城中藪河原之館にて誕生します。父は戸次親家、母は由布加賀守大神惟常女で、幼名八幡丸(のち孫次郎)実名は親守、親廉、後に鑑連といいました。道雪は天正二年(一五七四)頃に入道してからの名です。大永六年(一五二六)四月に鑑連は戸次家の家督を継ぎ、天文末年頃に戸次家の家督を甥の鎮連に譲っていますが、政治・軍事的な活動が本格化するのはこれ以降のことになります。また永禄年間(一五五八〜一五七〇)には戸次家からは初めて大友家の加判衆をつとめています。永禄十一年に立花城主の立花鑑載が主家の大友氏に謀反をおこしましたが、道雪は臼杵鑑速、吉弘鑑理らとともに立花城を攻略し、ついに鑑載を敗死させました。元亀元年(一五七〇)道雪は吉弘鑑理や臼杵鑑速らとともに今度は毛利氏の手に落ちていた立花城を攻め、城方を降伏させています。翌二年に大友宗麟により戸次道雪は立花城の城督に任じられ、同城に入城します。これ以降、鑑連は「立花」を名乗ったともいわれていますが、実際には宗麟が鑑載の不忠を嫌って立花姓を名乗ることを許さなかったようで、結局道雪は宗麟に遠慮して立花姓を名乗ることはなく、終生戸次姓を使用しました。ただ、道雪は「西大友」と呼ばれた立花家の名跡を継ぐ形で、立花城に入城したことは確かなようです。天正三年、男子のなかった道雪は息女誾千代に城督、城領、家財などの一切を譲ります。その後天正九年に高橋紹運の子息統虎(宗茂)を誾千代の婿に迎え、立花家の家督を継がせ、この後は統虎とともに軍事活動を行うことが多くなります。

戸次道雪天正六年に大友氏が耳川の合戦で島津氏に破れると、大友家の家臣筋からの謀反が相次ぎ、このため道雪は宗像氏貞や秋月種実や龍造寺隆信など大友氏と敵対する勢力との戦に奔走し、数々の功績を残しました。

天正十二年(一五八四)、道雪は高橋紹運とともに筑後地方の攻略にあたり、上妻郡猫尾城を落として黒木氏を滅ぼし、同郡山下の蒲池氏を降します。さらに、龍造寺家晴の守っていた柳川城を攻めますが、これを抜けずに高良山へ陣を移します。戦国期の国人蒲池氏が築城し本拠地とした柳川城は、蒲池鑑盛の子鎮漣(鎮並とも書く)の時、龍造寺隆信の謀略によって滅亡したため、鍋島信生(のちに直茂)、ついで龍造寺家晴が入城していました。この戦国時代の柳川城は度々の攻城戦に耐えた名城として知られ、家晴の守る柳川城を戸次道雪も攻めあぐねたのです。

高齢な上に長期の在陣がたたったのか、道雪はこのころから病にかかります。ついに病は癒えることなく、翌十三年九月十一日に御井郡北野で陣没してしまいます。道雪は死後敵を見据えるように高良山に埋葬するように遺言したと伝えられていますが、結局道雪の死を秘したままその遺骸は家臣たちによって立花城に運ばれ、立花城下の養孝院に葬られました。法名は「福厳寺殿梅岳道雪大居士」といいます。天明四年(一七八四)には梅岳霊神の神号を贈神されて、三の丸長久寺のなかの梅岳宮に祀られていました。後に、宗茂(松陰霊神)、誾千代(瑞玉霊神)とともに三柱神社に合祀されます。


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