立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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 戸次家と立花家  戸次道雪  立花宗茂  高橋紹運  誾千代

誾千代立花宗茂の正室であった「光照院」、通称誾千代は戸次道雪の娘として誕生しました。道雪には男子がなく、後年の系譜などにはこの誾千代のみが実子としてあげられていますが、『薦野家譜』などには、政千代と名乗る姉がいたことになっています。ただしこの人も十二歳で早世していますので、実質的にはやはり実子はこの誾千代一人と考えて良いでしょう。母親は問注所鑑豊の女子で通称を「にし姫」と伝えられています。誾千代の誕生は永禄十二年の八月十三日と言われていますが、当時道雪は筑後各地を転戦していました。肥前加瀬の高僧増吟によって「誾千代」と命名されたことが記録に残っています。

誾千代さて、母である鑑豊の娘には死別した先夫安武安房守鎮則氏があり、先夫との間に男子を儲けていました。誾千代にとってみれば義理の兄に当たる人物ですが、彼の幼名は亀菊丸といい、箱崎宮座主麟清の養子となって方清と名乗り座主職を襲うことになります。方清はのちに還俗して宗茂に従うことになりますが、安武茂庵として知られています。

元亀二年七月大友宗麟は道雪を城督として筑前の要衝立花城に入れます。天正三年、大友宗麟・義統は男子の無かった道雪に対し、戸次鎮連子息のうちからしかるべき一人を養子として「立花城」の家督を譲るように勧めます。鎮連とは道雪の甥にあたる人物で、道雪に譲られて当時は戸次一門の当主をつとめていました。しかしながら、道雪はこの勧めをいれず、同年五月二十八日数え年わずか七歳の娘誾千代に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲ってしまいます。この相続は六月二十八日付で宗麟・義統の安堵をうけましたので、名目上とはいえここに幼少の女城主が誕生したことになります。この誾千代の婿として望まれ、立花城に入ったのが高橋紹運の長子弥七郎統虎、のちの立花宗茂でした。『豊前覚書』という史料は誾千代と宗茂の婚儀を天正九年八月のこととしていますが、これに従うと誾千代は数え年十三歳、宗茂は十五歳となります。こうして、六年間つとめた立花城主という役目は夫となった宗茂に引き継がれることになります。

誾千代と宗茂とが婚儀をあげた頃の道雪は宗茂の実父高橋紹運とともに筑前筑後の各地で反大友勢力と戦っていました。一方養嗣子に迎えられた宗茂には立花城の守備が任されていたようです。こうしたなか、天正十三年九月誾千代の父戸次道雪が筑後北野の陣で没してしまいます。誾千代十七歳の時です。当時すでに九州の統一をもくろむ島津氏の脅威が南から迫っていましたが、翌十四年七月末には高橋紹運の護る筑前岩屋城が陥落、紹運も敗死してしまいます。岩屋城を落とした島津軍は大友方の拠点立花城を包囲します。島津方は開城を要求して、実際の戦闘は無かったようですが、立花籠城は二十日間近くに及びます。この間、誾千代も決死の覚悟で城を護ったことは想像に難くありません。

秀吉の九州平定により、立花家は大友家から独立し、筑後柳河に新たな領知を与えられることになります。誾千代は幼少の頃から慣れ親しんだ立花城に別れを告げなければなりませんでした。『豊前覚書』によれば、天正十五年六月十一日家老小野和泉守に対し柳河城請け取りの命が発せられ、十二日未明に城下井手橋に到着、十三日には柳河城の請け取りが完了します。これをうけて、十五日には誾千代はじめとする奥方も立花城を出て、十七日には一統が柳河入りを果たしました。

ところで、誾千代は「宮永殿」とも称されますが、これは宗茂の柳河入城後、城下宮永村に居館を設けて住まわったことによります。関ヶ原の合戦によって立花家が改易されると、誾千代も他の家臣共々加藤清正のもとに身を寄せ、肥後領内玉名郡腹赤村に居住していました。しかしながら、関ヶ原合戦から二年後の慶長七年十月十七日、同村において死去します。享年は三十四あるいは三十五と伝えられ、法名は「光照院殿泉参良清大禅定尼」と称します。元和六年に柳川再封を果たした立花宗茂は城下に良清寺を建立し誾千代の菩提を弔いました。


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