立花家十七代が語る立花宗茂と柳川
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御花
福岡県柳川市新外町1

御花

旧柳川藩主立花家の別邸

歴史
御花は柳川市新外町の南東端に位置する旧柳川藩主立花家の別邸です。江戸時代には柳川城の南西隅にあたり、「御花畠」とも呼ばれていました。現在の「御花」の名称はここからきています。
「柳河明証図会」によると、立花家3代忠茂が遊息所を営み、柳川藩の儒学者安東省庵が「集景亭」と名付けたのがはじまりとされています。また、元禄10(1697)年頃、立花家4代鑑虎が別宅を営んで「御茶屋」と称し、亭名を集景としたのが現在の御花に連なるという説もあります。しかし、鑑虎の営んだ「御茶屋」のあった場所は、現在の御花のある場所とは異なり、それをある時期に現在の場所に移したという異説もあります。このように、「御花」の淵源についてはいまだ明らかではありませんが、現在「御花」と通称される場所が、江戸時代に「御花畠」と呼ばれ、藩主の別宅として使用されたことは確かです。このことは「御花畠」の世話をする役職である「試番」によって記された日記により確認できます。この日記によると、藩主が柳川にいる間、政務の疲れをいやす目的から時々御花畠に立ち寄るケースと、ほとんどここで生活するケースとがあったようです。

御花畠は明治期に入ると、最後の藩主鑑寛が敷地内に「御隠亭」と呼ばれる邸宅を建てて隠居し、その後明治40年代に大広間、小部屋棟、西洋館、庭園が造られて現在の形となりました。

松濤園
松濤園現在の「松濤園」は、明治43年に十四代立花寛治伯爵によって整えられました。その呼称のとおりクロマツに囲まれた池庭で、座敷からの眺望を楽しむ観賞式の庭園です。園内には約280本のクロマツ,庭石1500個,石灯籠14基があり,沓脱石の巨石は旧天守閣の台石を移したといわています。園池のなかの二つの島と多数の岩島および水面は、冬場には飛来する野鴨が群れ遊ぶ見事な景観を見せます。

池庭に大小の中島や岩島を配して,大海をあらわし、その周囲にクロマツが繁るおおらかで優美な庭景を見せる名園として、昭和53年に国の名勝に指定されました。

西洋館・大広間
西洋館・大広間西洋館と大広間は讃井傳吉を棟梁として建設されたもので、大広間は明治41年4月30日に棟上、西洋館は明治42年に完成しました。大広間は18畳・18畳・12畳の3間から構成されています。庭園である松濤園に臨んで開放的な縁を設けており、庭と建物とを融和させる空間としての機能を果たしています。中の間と三の間の床は畳を取り除くと敷舞台となっており、能舞台として使用できるようになっています。

西洋館は立花家の迎賓館として建てられたもので、福岡技手であった西原吉治郎の設計と推測されています。西洋館建設当時にはすでに自家発電所が設けられており。シャンデリアや電気具が使用されていました。現在もランプシェイドなど多くの設備が昔のままに残されています。

立花家史料館(殿の倉)
立花家史料館立花家史料館(殿の倉)では、旧柳川藩主立花家に伝来する「大名道具」を展示しています。立花家史料館の前身である御花歴史資料館にて、昭和26年より立花家伝来の美術工芸品の公開を行ってきましたが、文化財を展示するのによりふさわしい施設として、平成6年に新たに開館しました。主として歴代藩主所用の武具・甲冑、藩主夫人の婚礼調度や装束、茶道具、能面・能装束、人形などの展示を通じて、大名家の歴史と文化を紹介しています。

 立花家史料館ホームページ

柳川地図
1 御花・立花家史料館
2 柳川古文書館 3 福厳寺
4 三柱神社 5 日吉神社
6 天叟寺 7 柳川城跡
8 戸島氏邸 9 白秋生家

 柳川への交通アクセス

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